ナムラブログ

古典占星術とか世相とかについて思ったまま書き綴る南村悠介の雑記ブログ

略せない

テレビはめったに観ないので芸能人にはあまり興味がありません。

でも、気になる人物も何人かいて、ふかわりょうさんがその1人です。

 

彼がちょっと前に出した本で

『世の中と足並みがそろわない』

というのがあります。

 

エッセイ集ですが、けっこう売れているようですね。

特に私が気に入ったのは冒頭の『略せない』。

 

ふかわさんはものの名称を略せない人間だそうですが、実は私自身、その「略せない」系の人間なんですね。

 

 

ふかわさんの主張を短くまとめると、地名であれ、バンド名であれ、名称というものを略して呼ぶことには、ある種のなれなれしさが伴うということのようです。

人の家に呼ばれて勝手に冷蔵庫を開けるような・・・。

 

たとえば東京の世田谷区にある三軒茶屋という地名。

これを多くの人はサンチャと呼びます。

 

でも、ふかわさんの場合、サンチャとはどうしても呼べないそうです。

なぜなら三軒茶屋をなれなれしくサンチャと呼ぶほど、まだ三軒茶屋を知り尽くしていないからだそうです。

つまり自分にはまだ三軒茶屋をサンチャと呼ぶだけの資格がないと・・・。

 

他にもたとえば人の名前を呼ぶ時、なれなれしく下の名前で呼べないとか、業界用語、たとえば「バーター」という言葉をいまだに使えない、といった例も書かれています。

 

これとよく似たことが私にもあって、私はいまだに占星術用語を略して呼ぶことができません。

たとえばノーアス、Tスク、グラトラ、グラクロなど。

 

こうした略称を平気で使う人はおそらくあらゆる占星術テクニックを自家薬籠中のものにしていらっしゃるのでしょう。

でも私としては、その「使いこなしているぜ!」感がプンプン漂ってくるようで、それらの略称を読んだり聞いたりするたびに自分の方がこっ恥ずかしくなってくるのです。

 

 

また、私は百円ショップのことを「ヒャッキン」と呼ぶことができません。

百円ショップは近所にもあるので十分に使いこなしています。

でも、その「百円ショップ」をわざわざ「ヒャッキン」と略すことで、いかにも「使いこなしているぜ!」感を演出する自分自身にある種のアザトサを感じてしまうのです。

 

 

略称だけでなく、ふかわさんは「エベレスト」のことを皆がある日突然、「チョモランマ」と呼び始めたことにも衝撃を受けたようです。

なんだ!この「手のひら返しは!」というふうに。

 

これもまた私自身、似たような経験があります。

私は自転車のことを今まで一度たりとも「チャリンコ」とか「チャリ」と呼んだことがありません。

 

私が子供の頃、ある日、周りの人がいっせいに「チャリンコ」という言葉を使い出したのを覚えています。

でも私1人、それに付いていくことができませんでした。

 

今でも他の人たちと自転車の話題をする時、みんなが「チャリ」、「チャリンコ」と言っている場で、私は「自転車」という言葉を発する前に必ずいったん呼吸を整えなければなりません。

「アレ、なんであなた、自転車とか言ってんの?」

「死語じゃん、それ!」

とか言われ、異端審問にかけられて火あぶりにされるんじゃないかと心配になってくるのです。

 

まあ、私に言わせれば大の大人が自転車をチャリンコとかチャリなどと呼ぶのは、クルマのことを「ブーブー」って呼ぶのと同じじゃないか!ということなのですが・・・。

 

 

ともあれ、私には言葉というものにどうしても譲れない「 こだわり」 があるようです。

私が出した例の『クリスチャン・アストロロジー第1部だけでも熟読してみませんか?』ですけど、わずか104ページしかないCA第1部に900個以上もの訳注を付けてしまいました。

 

たとえばCAに何度も出てくるGentlemanという言葉1つとっても、それを「紳士」と訳すことにはものすごい違和感がありました。

だからその理由を訳注で説明しないと気がすまなかったのです。

 

読む方の “ めんどうくささ ” も考えずにこんなことをやってしまうのも、やはり言葉への「こだわり」があるからだと思います。