ナムラブログ

古典占星術とか世相とかについて思ったまま書き綴る南村悠介の雑記ブログ

占いと非科学

 

 

 私たちは朝から晩まで科学技術の恩恵をべらぼうに享受しながら生活しています。科学技術のおかげで難しい病気も治るようになりました。飛行機に乗って外国にも行けるようになったし、パソコン、スマホ、などなど…、もう科学技術がなけれは現代人は生きて行けません。

 科学技術はすばらしい。まさに科学技術様々です。しかし科学技術というものと、その土台となっている「科学」という思考体系とはきっちり分けて考えた方がよいのではないか、というのが私の考えです。

 

 いわゆる「科学」というのは一種の宗教のようなものだと思っています。そう聞いてほとんどの人がピンとこないのも当然でしょう。なぜなら私たちは生まれた時から“科学教”の信者なわけで、生まれた時から「科学的」価値観を刷り込まれているので、いわばそれが自然な考え方であって、よもや特別な宗教だなどとは信じられないからです。

 

 そこで、1つ例をあげて説明したいと思います。例えば

『1+1=』

という計算の答えは『2』であると私たちは信じています。信じているというか、当たりまえだと思っています。

 しかしこの『1+1=2』のように、いつ、誰が、どこで計算しても答えが必ず『1』になるという「取り決め」もしくは「ルール」のもとで脳ミソを使うのが科学ってやつの最大の特徴なのです。

 

(ちなみに発明王エジソンは小学生の頃、1+1がなぜ2になるのかが理解できなかったので小学校を退学したそうです。彼は2つの小さな粘土のかたまりをくっ付けて1つにすると、1つの大きな粘土のかたまりになる。2つのものを1つにしたのだから、1+1は1である、と考えたのです。まとめて1つにしたのに、依然として“2つ”のまま、という理屈が彼には理解できなかったのです。)

 

 これに対し、計算する人、場所、時刻などの条件が変わると『1+1』の答えが2になったり、3になったり、あるいは1のままだったり…と変化してしまう思考法、すなわち「非科学」については「科学とは別種類のものの考え方」と解釈すべきなのですが、多くの人はそのようには認識していません。「科学にあらざるモノの考え方」つまり「非科学」について、せいぜい「気まぐれ」「でたらめ」あるいは「迷信」といった程度の印象、しかもある種の侮蔑的感情のこもった印象しか持たない人が多いのです。

 

 ここでもう一度『1+1』の計算に戻ると、その答えが常に『2』になるということは、科学的思考というものの「客観性」と「再現性」という2つの性格をよく表しています。

 「客観性」とは「いつ誰がどこで見ても同じ結果になることが観察できる」ということ。「再現性」とは「いつ誰がどこで実践しても同じ結果になる」ということ。つまり、物事への接し方において「当事者の場合」と「傍観者の場合」の両面において「普遍性」という尺度を必須条件としているのが「科学」なわけです。

 

 さて、そのような「客観性」も「再現性」も持たない「モノの考え方」を言い表す場合、「科学」のアタマに「非」の1文字をくっ付けて「非科学」と呼ぶことになっています。つまりこれはただ単に「科学にあらざるモノの考え方」という意味に過ぎず、それ以上でもそれ以下の意味でもありません。

 しかし、生まれた時から科学教徒の現代人にとって、この「非科学」ってやつは異端派、もしくは神(=科学)を信じない不届き者ということに他なりません。そして非科学には「でたらめ」というレッテルが張られることになります。

 

 もし、科学が宗教だというのが言い過ぎなら、「ここ300年ほどの間、地球上でたまたま大流行している1つのイデオロギー」だと考えてみてはどうでしょうか。「キミたちは科学教に洗脳されている!」と言われればカチンと来るかもしれませんが、「自分たちはたまたま“ある種”のイデオロギーをずっと信じていたんだ」と思えば、そのイデオロギー以外のもの、すなわち「非」科学に対しても少しばかりは寛容の精神が出てくるのではないでしょうか。

 

 今回、なぜ、こんなことを書いているかというと、占い師の多くが「占い」というものに貼られた「非科学」というレッテルをはずしたいと思って四苦八苦しているという現実があるからです。

 「非科学」とは何か?

 それは「科学とはまた別種のモノの考え方」という意味に過ぎません。そしてここには正しいとか間違っているといった尺度は関与していません。これを理解せず、ただただ「占いにも科学としての市民権を認めてくれよ」と願い、占いというものに「似合いもしない科学的衣装」を着せようとするのは不毛な努力だと思うわけです。今、その不毛な努力が占い界、特に西洋占星術の世界に蔓延しています。その中でも特に「マジメ人間」が集まる古典占星術の世界にそうした“努力家”がやってくるように思います。こうした風潮に警鐘を鳴らしたくて私はこの記事を書くことにしました。

 この続きはまた後日。