ナムラブログ

古典占星術とか世相とかについて思ったまま書き綴る南村悠介の雑記ブログ

未来を当てるということ

今回は鑑定ということについて書いてみたいと思います。

これは占いというものの本質を考える上で重要なテーマです。

 

 

占星術師にはあまりいないタイプですが、占い師の中で

「今まで何万人を鑑定してきた」

と自慢げに語る人を時々見かけます。

 

でも、鑑定した数というものに、果たして意味があるのでしょうか。

 

 

占い師がお金をいただいて鑑定という作業を行う以上、基本、その鑑定が当たらなくては意味がありません。

 

しかし、鑑定数を誇る人は自分のクライアントの未来を追跡調査しているのでしょうか。

そして自分の鑑定結果が当たったことを確認しているのでしょうか。

 

鑑定数を誇る占い師はこれについては語ろうとしません。

 

 

もし未来を鑑定するのなら、大切なのは鑑定数ではなく、

「未来を当てたかどうか」

ということです。

 

しかしそうは言うものの、

未来を当てるのは非常に難しい。

それが事実だと思います。

 

 

 

ちょっと、コムズカシイことを書きます。

 

量子力学の世界には観察者効果というのがあります。

人が何かを見たいと思う時、暗闇では見ることができません。

その「見たい何か」に光を当てる必要があります。

 

ところがその「見たい何か」がもし素粒子のように小さいものだったらどうなるでしょうか。

 

実を言えば、光もまた素粒子の一種です。

だから光を当てるとは、光の素粒子、つまり光子(こうし)をその「見たい素粒子」に当てるということです。

 

しかし光子を「見たい素粒子」に当てた瞬間、その「見たい素粒子」はどこかへ弾き飛ばされて目の前から消えてしまいます。

 

つまり、見ようとした行為によって逆に見えなくなってしまうということです。

これを量子力学では観察者効果と呼びます。

 

 

 

なぜ、こんなコムズカシイ話を持ち出したかというと、占いにもこの観察者効果とよく似た現象が起こり得ると思うからです。

 

人間の思念というのは一種のエネルギーです。

そういう意味では思念もまた素粒子と似たようなものでしょう。

 

そして未来を占う時、占い師は無意識のうちに思念を働かせるものです。

ところがその思念によって「見たい未来」が変形してしまう可能性があるのです。

 

 

これと逆のケースもありますよね。

たとえば気合いを入れて占ったわけでもないのに、ふと思ったことが的中してしまうような場合です。

これは思念のエネルギーが小さかったため、ふと見た未来が変形されずに実現してしまうからでしょう。

 

 

タロットでも最初のうち無心で遊び半分にやっていた頃はよく当たっていたのに、経験を積むにつれ、かえって「当てる難しさ」を実感するようになってきた、ということがあると思います。

 

これは自分の思念のエネルギーが強くなってきて未来に干渉し始めるからかもしれません。

 

 

だからこそプロと言えども「未来を当てる」のは難しいと思います。

いや、プロだからこそ難しい。

練習を繰り返しても的中率は上がるどころか、逆に下がってしまったり・・・。

 

確かにトークは上手になるし、こじつけの要領も付いてくる。

でも、純粋な意味での予知能力は曇ってくる場合があります。

(ただ、本人はそれに気づいていないだけ)

 

 

未来を占うというのは自然法則とのだまし合いです。

「当てる気はないんだけど・・・」

という脱力しきった気分でふと未来を感じてみる。

ここに1㎎でも「当ててやろう」とか「鑑定してやろう」という気負いがあると、そこに生じたおのれの「我」が未来に干渉を加えてしまいます。

だから当たりそうで当たらない、ということが起きてきます。

 

 

案外、未来を見る技術というのは知識や鍛錬の足し算によって身につくというより、むしろ毎日初心に戻り続ける引き算によって「失わずにいられる」ものなのかもしれません。

 

ゆえに「占いは鑑定がすべて」と頑なに信じきっていると「逆に当たらないだろうな」と私は思っています。

 

 

ところでウィリアム・リリーの占星術をシンプル過ぎるということで物足りなく思う人もいらっしゃるでしょう。

たとえばトリプリシティーのロードが3つではなく2つだったり・・・。

 

しかしこれは「要素が多過ぎると、そのぶん思念が未来に干渉する」と彼が危惧していたからではないでしょうか。

クリスチャン・アストロロジーの行間からそんな彼の思いが読み取れるような気がします。