ナムラブログ

古典占星術とか世相とかについて思ったまま書き綴る南村悠介の雑記ブログ

リリーは自分が書いた本を校正しなかったのか?

 アマゾンのサイトで、拙著『クリスチャン・アストロロジー第1部だけでも熟読してみませんか?』の内容紹介の欄に「CAの原書には組版上の手違いなど印刷工程で発生したミスがいくつもあります」と書きました。さらっと書きましたが、これ、気づかないで原書を読んでいると原文がめちゃくちゃ難解に感じられるんですよね。

 

 たとえば、あるページの中で、A→B→C→Dというように4つのブロックからできている文章があって、これが何度読んでも意味がわからない。しかしさらに何度も何度も読み返しているうちに、「ちょっと待てよ、Dの位置が変じゃないのか」と思い、A→D→B→Cの順番で読んでみると意味がバッチリ通る、というところがあります。

 

 他の例で言えば、ひと続きの文章になっているのだけれど、途中で意味がわからなくなる。「おかしいなあ」と思いつつ、何度も読み返しているうちに、その文章、実はまったく無関係な2つの文章が改行されることもなく連結されていた、なんてところもあります。

 

 当時の読者はもしかしたら「本なんて、こんなの当たり前」と思って読んでいたのかもしれませんが、今の時代、こういう本を作っていたらアマゾンの書評でダメ出しを喰らうでしょう。それも「自分の本をしっかり校正できないような著者の書いた本は読む価値なし」などと書かれ、全面的に著者が悪い、ということになってしまいます。

 

 確かに紙の本の場合は今でも著者が校正に参加することが多いようです。少なくとも最終校正の確認は著者が行う、と聞いています。では、ウィリアム・リリーは自分が書いた『クリスチャン・アストロロジー』の校正に参加したのでしょうか。

 これは推測ですが、おそらく校正には参加していなかったと思います。なぜかというとリリーの時代には著作権とか印税といった概念がなかったからです。当時の書籍というのは基本的には出版業者が著者から原稿を買い取るという形になっていました。したがって、いったん著者の手を離れた本が間違いだらけの出版物となって世に出ようと、著者が文句を言う筋合いはありませんでした。また、文句を言う必要もなかったのです。なぜならもはや自分のモノではなかったからです。

 

 ついでに書いておくと、リリーとほとんど同じ時代に生きていたシェイクスピアの場合も彼が書いた戯曲はすべて劇団による「買い取り」になっていました。だからその戯曲を劇団側が書き換えても文句は言えませんでした。実際、シェイクスピアの作とされている戯曲であっても、どこまでが本人の作で、どこからが劇団の誰かによる書き足し、または書き直しかわからない部分があるそうです。

 

 ところで私の本ですが、読んでくださる方は少しずつですが確実に増え続けています。本当におかげさまです。特に先日、タイトルを変更した後から「なんじゃこれ?」とばかりにお読みくださる方が多数いらっしゃるようで、読んでくださる方が急に増え始めました。本当にありがたいことです。

 私としては自分の解釈を占星術界のスタンダードにしようなどという大それた考えはありません。したがって大々的に売り出そうとも思っていません。しかし、「令和初年にこういう解釈をしていた人がすでにいた」、そして「それに興味を示す人、賛同する人も実は少なからずいた」という状況を少しでも作ることができれば自分としては大成功だと考えています。また、日本の占星術界に何らかの貢献ができたことになると思っています。

 私は人前に出ていくのはどちらかと言えば苦手な性格です。だから今後もひっそりと、でもしっかりと、自分が「こうだ!」と思ったことは臆することなく発信していきたいと思っています。