ナムラブログ

古典占星術とか世相とかについて思ったまま書き綴る南村悠介の雑記ブログ

混じり合わない気質(1)

前回の「混じり合う気質」に引き続き、今回は「混じり合わない気質」についての話です。

 

ここでまた例のゲーテの気質表を見ることにしましょう。

 

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今回の「混じり合わない気質」とは向かい合わせになっている気質どうし、つまり一番最初に説明したX軸どうし、Y軸どうしの組み合わせです。

 

・胆汁質←→粘液質

・多血質←→憂鬱質

 

この組み合わせの各特性については前回の記事の前半部分に書いておきました。

ぜひ参考にしてください。

 

 

まず最初に前回の話を少し思い出していただきます。

隣り合う気質というのは適度に混じり合うことにより、1人1人の個性を生み出すという話をしました。

 

では、向かい側にある「混じり合わない気質」は自分の個性にどう関係してくるのか。

 

これについて考える時、私はいつも思い出す映画があります。

それは『嘆きの天使』という90年ほど前のドイツ映画です。

 

私はこの映画を高校生の頃にNHKの名作洋画劇場とかいう番組で一度だけ観たことがあります。

主人公は高校(ギムナジウム?)の先生。

それが恐ろしく厳格で、勉強しない生徒を叱り飛ばしてばかりいる人物でした。

 

ある日、生徒たちがいかがわしいキャバレーに出入りしているという情報をつかんだ先生は、単身、そのキャバレーに乗り込んでいきます。

生徒を現行犯で逮捕し、厳しく処分するつもりだったのです。

 

ところが「ミイラ取りがミイラになる」のごとく、その先生はその店で大人気の女性ダンサーにすっかり魅了されてしまいます。

 

いろいろあって、やがてその先生はその女性ダンサーと結婚します。

その一方、学校の方はクビになってしまいました。

そして奥さんの働くその店でピエロ役として働くことになりました。

 

そうして夜な夜な酔客たちの笑いものにされているうち、ついに精神に異常をきたして死んでしまう、というストーリーです。

 

 

この先生は「教師」という職業ではありますが、ゲーテの気質表では憂鬱質のド真ん中、「勉強家だが杓子定規な人」と考えるのが妥当でしょう。

 

そして、その先生が夢中になった女性ダンサーは自分とは正反対の位置にある多血質の「恋人」に当たります。

 

ちなみにこのダンサー役をやっていたのはドイツの有名な女優、マレーネ・ディートリッヒです。

彼女はこの映画に出たことで、『100万ドルの脚線美』と呼ばれるようになりました。

 

 

話をもとに戻します。

 

なぜこの先生は自分の気質、あるいは価値観と正反対の女性にひかれたのか?

気質論においては、どの人間も4つの気質をすべて自分の中に持っていると考えます。

 

ただ、その中には自分に最も合った気質が1つあります。

そして、それを補強するカタチで左右に位置する気質が混じり合う、と考えるのです。

 

 

これに対し、真っ正面にある気質は混じり合うことはない。

でも、なにかの拍子にポロッと出てくることがある、と考えます。

 

たとえば日頃はのんびりと構えている人がプライドを傷付けられたか何かで、烈火のごとく怒り出す。

これは普段、その人の奥底に眠っている胆汁質が突如として目を覚ました例です。

 

こういう時、周囲の人は

「その人物の意外な一面を見た」

と言います。

 

しかし本人自身も、自分の意外な一面に驚いていたりするものです。

 

でも実際には意外というより、もともと本人の中にあったにもかかわらず、なかなか出番をもらえずに鬱屈していた気質だったと考えた方がいいのです。

 

 

ではなぜ、自分の奥底にしまい込んであった気質が突然目を覚ますのでしょうか。

原因はいろいろあると思います。

その1つとして考えられるのが、その心の奥底に触れてくる他者の出現です。

 

嘆きの天使』の例で言えば、ディートリッヒ演じるダンサーがまさにその他者だと言えます。

 

 

以前、このことに気づいた時、私の脳裏に真っ先に浮かんだのはユング心理学で「影」とか「シャドー」と呼ばれている概念です。

 

 

この「影」という概念は理解するのがけっこう大変です。

 

人間というのは多面的な生き物です。

でも、その多面性をそのまま放置しておくと、単なる多重人格者になってしまいます。

 

そこで普通、多面性の中から自分らしい側面をいくつか選び取り、その集合体を「自分」として本人は「意識」しています。

 

 

しかし一方、「無意識」の領域には、意識の上で「自分」として選ばれなかった別の「自分」が隠れているはずです。

これはいわば「無意識」の領域に封じ込められた自分自身の影法師です

「自分」の一部として、この世での「生」を与えてもらえなかった「影」としての自分です。

 

ユングはその、無意識の領域に閉じ込めてしまった別の「自分」を「影」または「シャドー」と名付けました。

 

 

さて、たいがいの人は自分自身の「影」がどのようなものかを知りません。

それどころか無意識の領域に葬られている別の「自分」がいることさえ気づいていません。

 

ただ、あなたの周囲にこんな人はいませんか?

「嫌いなのに、なぜか気になってしまうヤツ」

「とにもかくにも全否定したくなるヤツ」

「できれば顔も会わせたくないヤツ」

 

そういう人が周りに1人くらいはいるでしょう?

 

実はこういう人って、高確率であなたにとっての「影」の部分を自分の主性格として採用している人物だったりします。

 

そもそも「無意識」の領域に葬られて「影」となってしまった部分は、本人にとっては嫌悪すべき性格側面だったりします。

だからこそ、「自分」として採用しなかったわけですから。

 

ゆえに、そういう部分を前面に出している人を見るとなぜか気になって仕方ない、ということが起こるのです。

 

 

こう考えると、『嘆きの天使』の先生がなぜ単身キャバレーに乗り込んでいったかが理解できます。

 

 

たとえいかがわしい店でも、「まあ、そんな店があってもいいじゃないか」と許容する人も大勢います。

でも、その先生にとってみれば、まさにそういう空間は自分にとっては天敵だったわけです。

 

つまり、そういう「いかがわしい空間」がその先生にとっての「影」だったからこそ、その店に対して先生は過剰に拒絶反応を起こしてしまったのでしょう。

 

 

ところがその人にとっての「影」もまた、本来、その人の一部です。

だから一度触れてしまうと、それを葬り去る前の昔なつかしい感覚がよみがえってきたりする。

 

しかし、その「影」との付き合い方を間違えると、身を滅ぼすことになりかねません。

この先生のように。

 

 

ともあれ、ゲーテの気質表というのは向かい合う部分どうしがどうもお互いの「影」のありかを暗示しているように思えます。

そういう視点で見ていくと、まだまだいろんなことが見えてきます。

 

また次回、この続きを書いてみたいと思います。